Unwilling Consort











Part 5

レゴラスは目を(またた)いた。 庭園、それもこんな美しいところに、いつのまに来たんだろう? 妬けつくような痛みが体中を襲い始める。 白く熱く、脈打つような痛みは星の輝きに似て、ただ強まるばかりだった。

両の手の痛みは特に耐えがたかった。 ゆっくりと手を上げてみれば両方とも包帯でぐるぐる巻きにされている。 その光景を目にしたレゴラスに怒りと絶望が湧き上がった。 包帯の厚みにもかかわらず、右の手からは血が滲んでいた。

そしてレゴラスはまだ裸だった。 ここのエルフたちときたら、自分になにか着せようと思ったことはないんだろうか? レゴラスは心底腹立たしかった。

突然、レゴラスの脳裏に堰を切ったように記憶が蘇ってきた。 太陽の光を浴びてきらめく美しい小刀の切っ先、血まみれの手、 自分のうえに跨って止むことなく拳を降らせるエルラダン。 呼吸が苦しかったこと、グロールフィンデルの眼、それからエルラダンに犯されたこと。 どうしようもないほどの痛みと、まるで自分のものとは思えない、誰かの泣き叫ぶ声。

恐ろしい記憶がまざまざと蘇り、レゴラスはまた嗚咽をもらしはじめた。 もうだれに聞かれようとかまわなかった。レゴラスは声をあげて泣いていた。 脈打つような激痛と涙が止まらなかった。





数時間後、誰かの話す声でレゴラスは覚醒した。 ひそやかな声だったがレゴラスは鋭い聴覚で誰が話しているのか察知した。

わずかに顔を動かし視線をあげてみれば、エルロンド卿と話しているのは知らない男だった。 良く見れば男は人間だった。レゴラスは驚いた。 レゴラスは今まで人間を目にしたことがなかった。 けれどもあれはまちがいなく、人間だった。

ゆるやかなウェーブがかかった肩ほどの黒髪に、精悍な顔には薄っすらと毛が生えていた。 エルフの着るようなチュニックは着ておらず、胸元にも生えた毛がのぞいている。 しなやかなエルフの筋肉とは違う、逞しい体躯に浅黒い肌。 この人物にはエキゾチックな魅力があった。

「あれは誰?」 アラゴルンが囁いた。 大怪我をして、しかも男性というのに、アラゴルンはこのエルフがとても美しいと、そう思った。 そんな風に感じた自分がアラゴルンは不思議だった。

「お前の兄弟の、配偶者だ」 アラゴルンのまだ新しい傷のうえにすりつぶした薬草を塗りながらエルロンド卿が答えた。 アラゴルンは刺すような痛みに小さく呻いた。

裂け谷に向かう途中ワーグに不意を打たれ、アラゴルンは傷を負っていた。 アラゴルンに仕える大将ファラミア、ほか4名の供の兵士たちはかすり傷程度で済んだ。

「配偶者? いったいいつから? 裂け谷では見たことのない顔だ」

アラゴルンの視線は横たわったエルフの上半身に注がれた。 エルフの肌は抜けるように白く滑らかだった。 肋骨のあたりに包帯が巻かれている …… ということは骨を折っているのだろう。

「緑葉のレゴラス王子、スランドュイル王の末の息子だ」  エルロンド卿はため息を押し殺すように呟いた。

アラゴルンは驚きに眼を見張った。義理の父に問うような眼差しを向ける。

「2週間前、双子が闇の森からさらってきた」 アラゴルンがなにか言う間もなく、エルロンド卿が続けて言った。 「はじめまだ成年に達しないと聞いて、わたしは反対したのだがな。 成年になるまでまだひと月ある」

あの双子たちがどうにもものごとを待てない性格なのはアラゴルンもよく知っていた。 特にエルラダン。どうして義父は承諾したのだろう?

「どうしてあんな大怪我を?」 アラゴルンはますます気になった。

「エルラダンだ」 エルロンド卿はひとこと呟いた。

アラゴルンは今度こそ本当に驚いた。 まだ年端も行かないあのエルフに対して、どうして義理の兄はあんなひどいことができるのか。 アラゴルンはわからなかった。

義理の息子の手当てを終えると、今度は王子の様子をみようとエルロンド卿がベッドに近づいた。 レゴラスは眠っている振りをした。誰とも話しなどしたくなかった。

数分後、2人は静かに部屋から出て行った。

本当にひとりになったか耳を済ませ確かめてから、レゴラスはほうと抑えていた息を吐き出した。 バルコニーのほうに頭を向けると柱の間から陽光が漏れ差している。 あの日差しを思う存分浴びられたらいいのに。レゴラスはそう思った。

誰もいないのをいいことに、レゴラスは思い切って身を起こそうとした。 ゆっくりと、気をつけて上体を起こしていく。 手が使えないので筋肉に負担がかかり、肋骨が軋むように痛む。


「無茶をするな」 厳しい口調ながら歌うような声がした。

レゴラスは驚いて声のしたほうを振り向いた。 誰かいたなんて全然気づかなかった。

開いた扉のところに立っているのはエルロンドだった。

エルロンド卿はレゴラスのベッドまで数歩でやってくると、 無言のまま王子に視線を据えた。 なんとも居心地の悪いようなその感覚に、レゴラスはもぞもぞと下を見る。 厳しくレゴラスを見据えるようなその視線は少しだけ王子を震えさせた。

自分の手当をしたのは、あんなに父が悪く言っていたこの館の主だった。 エルロンドが自分のうえにかがみ込んで治療したときのことを思い出すと、レゴラスは少しだけ頬を染めた。 腕や胸の怪我だけでなく、とても口にはできないところの傷まで手当てされたのだ。

2人の間の沈黙は痛いほどだった。

しばらくするともうひとりエルフが入ってきた。食事と飲み物を運ぶエルフだった。 召使は盆を置くと一礼して去っていった。

レゴラスが何か言う間もなく、エルロンドは傷ついたエルフを手伝い、身を起こさせた。 エルロンドは自分が触れると王子がびくりと震えるのに気がついた。 まだ若いこのエルフはいまは誰も信じられないのだろう。卿はあえてなにも気づかぬふりをした。

アラゴルンの手当てをしている間、卿は王子が眼を覚ましたのに気づいていた。 だから癒しの間を出ると食事を持ってこさせるよう、アラゴルンに言付けておいたのだった。

ベッドのうえに盆を置くと、卿はレゴラスの隣に座った。 おびえたエルフはまたびくりと身を震わせたが、だからといってどうにもならないことはわかっているようだった。

レゴラスは文句は言えなかった。両手は今使えないしエルロンド卿に食べさせてもらうしかない。

「食べなさい。もう3日も続けて癒しの眠りについていた。 食事をしなければ力もでないぞ」 エルロンド卿がやさしく語りかけた。

裂け谷の主である黒髪のエルフはこの王子に対して、哀れみと同時に、罪悪感すら感じていた。 卿は自分の息子たち、特にエルラダンがどうして王子にひどい仕打ちをするのかわからなかった。 事が収拾つかなくなるまえに、双子たちと一度話しをしておかなければならない。卿はそう考えていた。

レゴラスは黙ったまま、少しずつ口元に運ばれる食事をおとなしく食べていた。


Part 6

頬を撫でる手に、レゴラスはびくりと眼を覚ました。 触れているのは双子の片割れだった。 レゴラスは怯えた眼で、触れてくる手から逃れようと試みる。 2人を見分けるのは難しく、 エルラダンかも ……、と思えばレゴラスは動悸が早まった。 でもどちらだろうと、最終的にひどい事をされるのは同じだった。

傷が完全に癒えるまで、まだ数日間、王子はこの癒しの間から出られないことになっていた。 ベッドを暖めるエルフなしの日々が続き、エルロヒアはそろそろ落ち着かなくなってきていた。 だから父に止められているにもかかわらず、 エルロヒアは警告を無視して癒しの間に忍び込んだのだった。

双子の弟がにやりと笑う。とまるで獲物を狙う飢えた獣のように、 レゴラスから視線を外さずベッドに乗り上がった。 怪我のところに体重をかけぬよう、エルロヒアは王子のうえに跨る。 そして王子の肘のうえを抵抗できないよう押さえつけた。

エルロヒアは身を屈め、震える唇に口づけた。 レゴラスからか細い抗議の声があがる。でもエルロヒアは口付けを止めようとはしなかった。 舌を深く差し入れるとエルロヒアはワインのように甘い唇を存分に貪りはじめた。

癒しの間に入ってきた人影に、そのとき2人は気づかなかった。 こほんという咳払いにエルロヒアが目線を上げる。 それはレゴラスの見た、あの人間だった。

「邪魔をして悪いんだが ……、そこにいる若い友人の様子を見てこいって父さんに頼まれたものでね」 アラゴルンはにっこり笑ってそう言った。

もちろんそんなのはでまかせだった。 たまたま近くを通りがかったらすすり泣くような声が聞こえてきて (どういうわけか、最近アラゴルンはよく館のこの一角に足が向くのだった)、 怯えきったこのエルフを自分が守ってあげなければ、アラゴルンはそう思ったのだ。

どうしてそんな風に思ったのか、アラゴルンは自分でもよくわからなかった。 レゴラスは明らかに2人の兄のものであり、兄たちから何かを盗るなんて、ありえないことだった。

「ああ、それと、エルロヒア、父さんが探してたよ。今なら書斎にいるはずだ」

義理の兄はいぶかしげにアラゴルンを眺めたが反論はしなかった。 いらだたしげに、最後に一回、エルフの若者にしっかり口づけて、エルロヒアは去っていく。 それを見たアラゴルンは鼓動が早まって、なんともいえない気分に襲われた。 自分でもなぜなのか不思議だった。そうできるのはエルロヒアの権利だった。

アラゴルンが裂け谷を離れてから、もう何年も経っていた。 その間アラゴルンはゴンドールに王としての証を立て、 忙しさに紛れ帰郷できぬまま時が過ぎ、 兄弟の仲はいつしか疎遠になっていた。 スランドュイル王との争いに加わらないとアラゴルンが表明した時点で、家族の亀裂は明らかだった。 エルロンドはアラゴルンを責めなかった。 これはもともとスランドュイルと自分のあいだの因縁から発したもの、卿はそう考えていた。

浅黒く精悍な人間の男は、ベッドの脇に椅子を引いて腰掛けた。 レゴラスは動かぬまま、嫌そうに男を見た。

「気分はどう?」 男は笑顔で話しかけた。 男は音楽を奏でるような、軽やかなエルフの声とはずいぶん異なる、 深く響くような声をしていた。

笑顔は好ましく見えたがレゴラスはまだこの男を信用する気にはなれなかった。 人間というものはエルフに対してひどく残虐なことをする。 レゴラスは人間と戦ったことのある兄や兵士たちに、ずっとそう聞かされていた。

「わたしの名はアラゴルン」 人間はそう言うとレゴラスが答えるのを待つこともなく、話し出した。 「エルロンド卿はわたしの育ての親だ」

これを聞いてレゴラスは驚いた。裂け谷のエルフどもと人間が同盟を組んでいる?

「心配はいらない。わたしはなにもしないから」 仕草と表情にエルフの若者の不安を感じて、なだめるようにアラゴルンが言った。

アラゴルンがなんと言おうとレゴラスは信じる気にはなれなかった。 義理とはいえ兄弟、似たような生き物に違いない。

「あなたも僕がベッドを暖めてくれればいいと思ってるんだろ? きみの兄弟がそう僕にさせたみたいにね! 嘘なんかつく必要はないんだ」 レゴラスが冷たく言い放つ。

アラゴルンはレゴラスの言葉にあっけに取られた。

「こんな状況じゃ誰も信じられないというのもわかる、 だが、貴方を害するようなことはなにもするつもりはないんだ。 本心からそう言っている」 アラゴルンは辛抱強くレゴラスに言った。

今度はレゴラスが驚いた番だった。 裂け谷に来てからというものの、シンダールのレゴラスと仲よくしようとするエルフなどひとりもいなかったのだ。

「無礼なことを言って、ごめんなさい」 ついにレゴラスが口を開いた。

「謝ることはない、レゴラス王子。身構える気持ちはよくわかるよ」 アラゴルンが笑顔になった。

この王子は礼儀正しくて、それにようやくすこし、自分に心を開いてくれたようだった。 アラゴルンはこの若者に好感を持った。 王子だということを鼻にかけた様子もない。 さんざん耳にしていた王子の父親の話からすれば、 その子どもたちもきっと父親に似ているのではとアラゴルンは思っていた。

「レゴラスと呼んで下さい、アラゴルン殿」 弱々しい笑みを浮かべて王子は言った。イムラドリスに来てからレゴラスが笑ったのは初めてだった。

「ただのアラゴルンでいい。みんなそう呼んでる」

互いを見たまま2人はしばらく黙りこくっていた。それぞれが物思いに耽っていた。

「よかったら聞かせてくれないか。闇の森は、どんなところだい?」 気まずい沈黙を破ろうとアラゴルンが質問した。
アラゴルンは野伏だったころ幾度か闇の森に入ったことがあった。 だから闇の森についてはなにも知らなかったわけではない。 誇り高い闇の森のエルフたちは国境でアラゴルンとでくわしても、 アラゴルンを邪魔しようとはしなかった。

けれどもアラゴルンはこの王子のことをもっとよく知りたかった。 生まれ故郷である森のことを聞いていれば、もっと心を開いてくれるかもしれない、 こうしてそばにいても不自然でない、そう思ったのだった。

レゴラスが喜んで闇の森の話を続けていると、いつしか時が経っていった。 いろいろな話をするうちに、レゴラスは自分の弓の腕がいかに立つか、そんなことさえ語っていた。 ふとアラゴルンから視線をそむけると、レゴラスの瞳からひとすじ涙が零れ落ちた。

「どうしたんだ?」 アラゴルンが心配げにたずねる。

「もうすぐ成年の儀だったんだ。でももう、…… 僕は戦士にはなれないな」 悲痛な面持ちでレゴラスが言った。

アラゴルンはなんと声をかければよいかわからなかった。 すっかり打ちひしがれた様子のこのエルフを見ていると胸が痛かった。 本当に欲しいと思っていたものが手に入らないと気づいたとき、 どんな風に感じるか、アラゴルンは知っていた。

2人はそのまま午後中ずっと、お互いのこれまでについて語り合い続けた。 エルフが笑うとそのあどけなさに、アラゴルンは胸が締め付けられた。 レゴラスも自分の存在を悪くは思っていないようだった。 レゴラスが笑うと、アラゴルンは心と身体に火が付けられるようだった。

まもなくアラゴルンは、このエルフの輝く瞳にすっかり惹き込まれていた。 悲しみでいっぱいのはずなのに、このエルフからこんな笑顔が見られるのは 貴重な瞬間だった。 自制しようと思うのに、いつしかアラゴルンの視線はこのエルフの完璧な面差しに釘付けになっていた。 引き締まった桃色の唇、輝く金髪、そのすべてをアラゴルンは心に刻み付けた。

アラゴルンは自分がゴンドールの王ということをレゴラスに告げなかった。 目の前のエルフに夢中でアラゴルンはそんなことはあまり気にしていなかった。

夜になり、寝床に入っても、アラゴルンはちっとも眠れなかった。 レゴラスの姿が目に焼き付いて離れなかった。 男性のエルフにこんなにも心惹かれてしまうなんて ……、アラゴルンは心乱れていた。











TEXT / BACK / NEXT/ TOP