第 1 章  闇に消える




3019年 夏至前夜


「いつかこの日が来るってことは分かってた。そうだよね、アラゴルン」
レゴラスは努めて平静を装いました。 心臓がぐいと掴まれるように痛みます。 強くあらねばならない。レゴラスはそう、自分に言い聞かせました。

2人が対峙しているのはミナスティリスの玉座脇にある控えの間、 謁見を請う者たちの列はさきほど衛士が払ったばかりです。 両翼のついた冠を戴いて、位にふさわしい長衣をまとったエレッサール。 その姿はもう、どこから見ても由緒正しい貴人、人間の王そのものでした。 しかしその視線はどこか遠く、虚ろでもありました。 目の前に立つのがこの8カ月間、あれほど近しく時を過ごした人の子と同じだなんて。 とても俄かには信じがたい気持ちでした。

「その時がきたら、どうするつもりかってことは、前に話してるね。覚えてる?」
レゴラスが続けます。

「ああ」
打ちのめされた様子でエレッサールが答えます。
「貴方は王となったものに頭を垂れ、それから静かに消えていく、そう言った。 あれはもう …… ずいぶん昔のことのように思える」
アラゴルンは目をこすって冠を外し、卓の上に置きました。

「約束は守るよ、アラゴルン」

銀と黒の制服をまとった背の低い近衛兵が入ってきて、深々と頭を下げました。
「陛下、伝令が来ました。予定の一団が、ここから一時間ほどの距離にまで来たそうです」  ひと呼吸おいてから、明るい声でこう付け加えます。
「やってきたのはエルフたち、それも避け谷からのご一行だって。 エルロンド卿、それにアルウェンさまもご一緒だよ」
そこまで言ってから、近衛兵は一瞬戸惑うようにレゴラスを見上げました。

レゴラスは一礼し、立ち去ろうとして扉のほうに向き直りました。 心の底まで凍りついてしまったようでした。 誰よりも愛することとなったこの男をいま一度、 この腕で抱きしめたい、そんな想いが脳裏をよぎります。 ああ神よ、レゴラスは思いました。自分はこの人間を愛している。 ただ立ち去るだけなんて、どうしたらそんなことができるんだろう?

「レゴラス」 
エレッサール王が呼び止めました。
「ちょっと待て。まだ話は終わってない」
近衛兵のほうに向き直ってこう告げます。
「ありがとう、ピピン。よく知らせてくれた。もう下がってくれて構わないよ」

「うん、馳夫さ …… じゃなかった、エレッサール王陛下」
ピピンはこくりとうなずくと、 レゴラスのほうをちらりと心配気に見やりました。 小さな近衛兵は石床に軽く冷たい金属音を響かせながら出ていきました。

心のどこかでアラゴルンの静止の声に感謝しつつも、 エルフは扉の脇にただ立ち尽くしました。 あと少しだけ、もうほんの数分だけ側に居ることができる。 そんな風に思ってしまう自分の弱さをレゴラスは許せませんでした。

「レゴラス」 
王がいま一度、口を開きました。落ち着かなげに、部屋を歩き回っています。
「君をここに呼んだのは私だ。というのに、この後に及んで私は今、話を始めるのを恐れている」

「言わねばならないことはもう話したじゃないか」 エルフは優しく言葉をかけました。
「君の運命はもう、僕の手を離れたんだ。戦場では、僕がオータニル として君のそばに居た。 けれども僕はその役目を終えて、これからは、君のそばに居るというその役割を担うのは夕星、アルウェン姫だ。 …… 我が王よ。 すべて、在るべきとおりになるんだ。この時が来ることは、僕たちは初めからわかってた」

「そしてその時は来た ……。だが、先にそう、知っていたからといって、この苦しみが、軽くなるわけでもない」  そこまで言うと、突然アラゴルンの視界は涙に歪みました。 レゴラスから顔を逸らし、窓の外を見やります。
「私は自分の心がわからない。 今この瞬間でさえ心のどこかでは、このまま2人で駿馬を駆って どこか、遠くへと雲隠れしてしまったらと考えずにいられないんだ。 指輪の誘惑に立ち向かいモルドールの軍勢を制してきたというのに、私は ……、 友よ、私はこの試練には、打ち勝てそうにない」

「なら、君のかわりに、僕が強くなろう」
レゴラスはそう言うと一歩前に出て、王の肩に手を置こうと手を上げました。 恋人としてではなく、ひとりの仲間、友人として。 しかし一旦上がりかけたレゴラスの手は、王の肩に届くことなく、力なく下へと落ちました。 アラゴルンが視線でその動きを追っています。

「君への愛の、最後の証として、僕がしてあげられることは」
エルフ王子は消え入るような声で言いました。
「4ヶ月前のロスロリエンでの、あの約束を守ること。 君の心を少しでも軽くできるなら、今日の夜でも構わない。僕は発とう」

「だめだ、それはいけない」王が反論します。
「この祝宴には友人みなに参列してもらいたいんだ。 君は特に、私の最大の友人でもある。儀式の時には、隣にいてほしい。 つらいとは思うが ……」

「かまわないよ」
そう答えるとレゴラスは今度こそ立ち去ろうとしました。 部屋の向こう側から押し潰されるような呻き声が聞こえました。 次の瞬間、レゴラスはいつのまにかアラゴルンの腕の中、しっかと抱え込まれ、 激しい口づけを浴びていたのでした。

「エステル!」 エルフはアラゴルンを押しのけようとしてもがきました。
「やめるんだ! ああ神よ、もうこれ以上辛い思いは ……」
けれどもそのときレゴラスの自制心は音を立てて崩れ落ちていました。 そうして気づけばレゴラスもまた、アラゴルンに熱い口づけを返していたのでした。 エルフの腕はいつしか王の背に伸び、まるでその身を自分に取り込もうとでもするかのように、 全身で、しっかりとアラゴルンを抱きしめました。

「愛してる、これからもずっと。そのことだけは、わかっていてほしい」  顔中に接吻を落としながら、アラゴルンが囁きました。

エルフは深く息をつきました。 「ああ愛しい君、わかってる。でも、これからの人生は君だけのものじゃない。 この国の民たち、それから君の世継ぎと …… 未来の王妃、皆のためにあるんだ。 …… こんなことは、僕たち2人のためにもよくない。もう、終わったんだ。…… もう、行かせておくれ」

ゆっくりとアラゴルンから力が抜け、がっちりと抱え込んでいた両の腕からレゴラスを解き放ちます。 打ちひしがれた王の瞳を見つめながら、エルフは意志の力を振り絞って、一歩後ろに退きました。 熱い涙がひとすじ、頬をつたい流れ落ちます。 レゴラスは素早く背を向けると急いで部屋を去りました。



. . .. .. . . . . . . . . .. .. . .



レゴラスは自室で、テラスへと抜ける扉に面した椅子に座っていました。 脇に酒びんを抱え、手の中でグラスのワインを回します。 テラスの扉は開け放たれ、 カーテンを揺らす心地よい風が、すぐ表に這うスイカズラの蔦から花の香を運んできます。 外では中つ国一の美しい夜が過ぎていきました。 レゴラスはそこかしこに灯火を燈した城壁が幾重にも層を成す、偉容溢れる都の様子に目を遣りました。 東方の空低く、昇ったばかりの月が大きな銀盤となって浮かんでいます。 眼下に行き交う人々の歌と笑い声はエルフの居るこの部屋にまで聞こえてきて、 空は時おりきらきらする光、どーんと響く低い音、そしてぱちぱちと鳴る音で包まれました。 自虐的な笑いでエルフは顔を歪めました。 花火。ガンダルフの結婚祝いでした。

この都で今宵、祝い喜ばずにいる者は自分くらいだろう、そうレゴラスは思いました。 エステルがアルウェンの手を取り、共に膝まずき誓いを立てる姿 …… すぐ隣で見守ったあの光景を、レゴラスは心から振り払おうと努めました。 アルウェンのまとった青いドレスは動くたびに揺れる光を反射するクリスタルビーズがちりばめられ、 そのいでたちはかの女の名の由来となった、夕星さながらの美しさでした。 けれど身にまとった豪奢なドレスなどよりも、ずっと輝いていたのはアルウェンの表情のほうでした。

この夜、アラゴルンがレゴラスと目を合わせたのは一度きり、 その視線からはレゴラスは何も汲み取ることができませんでした。 2人のために心の底から喜び祝いたい、そう思って、レゴラスは精一杯空しい努力を払ったのです。 けれどもそんなことはやはり無理でした。 レゴラスは退出してもさしつかえない時間になるまで我慢した後、 残りの旅の仲間たちにそそくさと挨拶を済ませて、 強いワインを片手に自室へと戻ったのです。 レゴラスは特に酒が好きという訳ではありませんでした。 しかしこの胸の奥の痛みを堪えるためには、どうしても何かが必要でした。

壜を持ち上げて振ってみると、赤い液体が音を立てて揺れています。 レゴラスは壜の残りをグラスに注ぐと一気に飲み干しました。 どうして自分はいつも、恋人を失う運命にあるんだろう? エルウィンはオークに殺され、アラゴルンもいまこの瞬間、自分以外の者と一緒になろうとしている。 愛する者の姿をすぐそばに見ながら、 それでもみずからその愛情を否定しなくてはならない --- それはある意味、死よりつらいことでした。

エルフは突然、暗澹としてやり場のない怒りに駆られ、 火の絶えた暖炉めがけてグラスを投げつけました。 叩きつけられたクリスタルの砕けちる音が響きわたります。

自分はこれからどうすればよいのだろう? してはならない期待を胸に秘めながら此処に留まる? 王の側近く仕え、ただひたすらその姿を垣間見たり、優しい言葉をかけてもらうのを待ちながら? ひょっとしたら、どこか奥まった小部屋での束の間の逢瀬だって、ありえない、とはいえないかもしれない。 そんなことを考えてしまう自分がレゴラスはつくづく嫌でした。 アラゴルンはもう誓いを立て、永久に自分のものとはならないのです。 そう考える以外のことを自分に許してはなりませんでした。 此処に自分が留まるのは皆にとって苦痛としかならない。 では何処へ? 闇の森に帰る? でも自分はそこで何をすればよいのだろう? 父王に仕えて、何処かのエルフ乙女と結婚?

不死であるということは呪いのようでした。 こんな胸の痛みとともに永遠の時を過ごすなんて、いったいどうすればいいのでしょうか? 暗い思考が黒い雲のように涌き出してレゴラスを包みこみ、 ぴったりと貼りついたそれはレゴラスにこの痛みから逃れられる方法を囁きました。

エルフは鞘からナイフを抜いて月明かりにかざし、 研ぎ澄まされた刃表の流れるような美しさにしばらくじっと見入りました。 レゴラスはこの刀を使ってこれまで数え切れないほどの敵を倒してきました。 手に収まるその自然な感触はまるで自分の手の一部のようです。 王子はナイフを宙に高く放り上げると、 スローモーションのように弧を描きくるくると回転しながら落下するナイフの柄を易々と掴みました。

レゴラスはもう片方の手を持ち上げると、拳を握って手首に血管を浮かせました。 エルフは傷心で死に至ることもある --- そのときが来ることは、レゴラスにはもうわかっていました。 緩慢に生を失なう無残な死。こちらのほうが早い。

レゴラスはじっとナイフを見つめ、それから誰かと対峙するかのように、自らに刀身を向けました。 両手で柄を握って、切っ先を自分の胸へと突きつけます。

王子はそのまま動きを止め、痛みが去るのにどれくらいかかるだろう、 その先の道行きはどのようなものになるだろうかとしばし思いを巡らせました。 この罪の贖いに、残りの永遠の時をマンドスの館で過ごすのだろうか? しかしあの場所でなら、少なくともこの胸の痛みからは解放される筈でした。 押し当てたナイフに力を込めていくと、鋭い痛みとともに刃先が皮膚を破り、 ほの温かい流れが胸元をしたたり落ちました。

誰かの笑い声が聞こえました。 耳の奥で鳴り響く鴎の声のように、強い安堵の念が走り抜けます。 駄目だ、いけない。やめるんだ。これは、弱い者のやりかただ。 レゴラスはため息をついて膝のうえにナイフを降ろし、熱い額を掌で拭いました。 胸元の服をぎゅっと握ると、心臓は恐ろしいほどに早鐘を打っています。 そしてやはりその内側では、あの痛みが変わらずに脈打っているのでした。

誰かが扉を叩きます。レゴラスはじっと、 返事もしないでただ、凝り固まったように座していました。 黒く蠢く闇にすっぽりと覆われてしまったような、そんな心地がして、 とても誰かを歓迎する余裕などありませんでした。 戸を叩く音がますます大きくなりました。

「開いてるよ!」
エルフ王子は吐き捨てるように言いました。

入ってきたのが誰なのか、レゴラスは振り向いて見ようとさえしませんでした。 どうだっていい、そんな気分でした。 しかし背を向けたままではいても、入ってきたのはひとりではなく、 よく似た2つの精神であるというのは感じ取れたのです。

「部屋に居る時でも、決して扉に背を向けて座ってはいけない、そう教えなかったかな?」  楽の音のように滑らかな声が響きます。

「扉ってものからは、いつ何時、どんなものが入り込んでくるかわかったもんじゃないからね」  初めの声によく似てはいるものの、少しだけ高めのトーンの声が、楽しげに言いました。

レゴラスは振り返ると、2番目に喋った人影に向かって短剣を投げました。 短剣はどすっと音を立て、頭のすぐ左脇、壁を捉えます。 それでも投げられた側は、避けようとする素振りすらせず、 ちょっと驚いたように目をしばたたかせてみせただけでした。

「自分の始末くらい自分でつけるさ、エルロヒア」 レゴラスが言いました。

「うーん。そう、かな? 今ので武器を手放してきみは丸腰、おまけに的さえ外してるってのに」  エルロヒアが言葉を返します。エルロヒアは壁からナイフを引き抜きました。

「…… いいんだ、そこを狙ったんだから」  レゴラスはまたテラスへと抜ける開き戸のほうへ向き直りました。
「本当に殺そうと思ったら外したりしない。分かってると思うけど」

「おおっと、我らが従弟殿 はご機嫌斜めか」  エルラダンが言いました。
「ギムリにはそう言われて来たんだけど、ほんとにその通りだったな」

「ギムリったら、あの髭のなかに鼻をうずめて余計なことなんか言わないでおいてくれればいいのに! とにかく悪いけど、今夜ぼくは話し相手が欲しい気分じゃないんだ」

エルロンドの双子の息子たちは豹のように優雅な足取りで部屋の奥へと進んでいくと、 座ったレゴラスを挟みこむように両脇に立ちました。 2人が歩むのにあわせて、鎖帷子と皮の擦れる音が響きます。

王子が2人を見上げました。 この2人のことは前からよく知っています。 それでも鏡を合わせたようにうりふたつのこの双子たちを目にすると、 いまだにレゴラスはしばし、落ち着かない気分にさせられるのでした。 2人の長い黒髪は秀でた額を露わに、銀の髪留めで後ろに束ねられています。 狼のような瞳は薄い灰色で、虹彩のまわりに黒い縁取りがありました。 吸い寄せられるようなその双眸の上では、黒い眉が斜めに上を向いています。 双子たちはエルフらしい整った面差しに、 ゴンドール人特有の直線的でしっかりとした鼻梁を兼ね備えていました。 背はすらりと高く、整った面立ちには光が差しているようでした。

つまりこの2人は息を呑むほどに美しいのでした。 しかしこの2人は同時に恐ろしく残忍かつ危険、でもありました。 触れたものには容赦ない死を約束する、そんな気配をこの2人は漂わせていました。 双子たちの姿を目にした途端、オークどもが恐怖に叫びその場から逃げ出していく、 そんな光景をレゴラスは何度も見たことがありました。

2人の銀灰色の上衣は片側から袈裟にかけられています。 片身を抜いたその装いは長剣を帯びるときのものでした。 両手には黒い指なしの革手袋。この2人は妹の婚儀のときにさえ、戦いの装束で出席していたのでした。

「君のナイフだ。闇の森のエルフ君」  柄の方を差し出して、エルロヒアが軽くお辞儀をしてみせます。

「君らも祝いの席に行ってたほうがいいんじゃないのかい?」  受け取ったナイフを鞘に収め、レゴラスが言いました。

「もう充分、付き合いは済ませた」  エルロヒアが言いました。
「皆と一緒に大騒ぎするような性質(たち)でもないし」

「祝いの場所を移そうと思ったのさ。こっちにね」  エルラダンが言いました。懐から黒い大瓶を取り出します。

「じゃあ勝手にすればいい。僕のことは放っておいてくれて構わないよ」  じっと開き戸の外を見つめたまま、レゴラスが言いました。

エルロヒアが片眉をぴくりと上げました。
「グラスはあるかな? あの粉々になったやつ以外で」

「…… あっちにある」 レゴラスは手で曖昧に棚を指し示しました。

エルロヒアが棚の前に膝をつき中を探し始めると、 エルラダンは卓から椅子を2脚、レゴラスのそばへと引き寄せました。 椅子に片足を投げ上げると、重い金属音を響かせて腰を降ろします。

「レゴラス、あのグラスが君に何かしたのかい?」  床に散らばった破片をひとかけら拾いながらエルロヒアが言いました。 陶器のタンブラーを3つ手にするとこちらへとやってきます。

エルロヒアは瓶のコルクを抜いてタンブラーに透明な液体を注ぐと、自らの杯を掲げました。 エルラダンも杯を上げます。レゴラスは座したまま、頑なに動こうとはしませんでした。

3つめの杯を、エルラダンがレゴラスに握らせました。
「従弟殿、乾杯を拒むことはないだろう。チュイル!

エルラダンがレゴラスの杯に向かってタンブラーを傾けると、 王子もようやくゆっくりと杯を傾けました。 エルラダンが手首を返してタンブラーの下部を軽く合わせると、 エルロヒアも同じようにレゴラスと杯を鳴らします。 2人はぐっと杯を空けました。

レゴラスはタンブラーに口をつけると、あの温い、 蜜のようなミルヴォールの輝きが、 じんわりと喉元から胃へと流れ落ちていくのを感じました。

「悪いとは思ったんだけどね、父の持ってきた結婚祝いから一本失敬してきたんだ」  そう言ってエルロヒアがほほ笑みます。
「これが今一番求められてるのは此処だろうって、そう思ってね」

ぱあっと輝く光に部屋が包まれて、それからすぐに、どーんと響く低音が続きました。 人々の歓声は遠くからでも3人の耳に伝わりました。

「美しい夜だな」 エルラダンが言いました。

「またとない夜、だね」 エルロヒアが言いました。 開き戸のほうへと歩いていくと、カーテンを開けて、大きく息を吸い込みます。
「そして、かぐわしいこの夜気」 エルロヒアのテノールの声は優しげでした。
「ヴァリノールもかくや、と思えるね」  エルロヒアが振り返りました。差し込んだ月の光がその横顔を銀色に照らし出しています。
「今宵、僕の愛する者すべてがこの都に集い、喜び、祝い合っている。 あの2人もやっと、一緒になることができた。その瞬間を目にできて、本当に嬉しいよ。 闇の力を、愛が打ち負かしたんだ」

「そう」 エルラダンが言いました。
「喜ばずにいるべき理由などあるだろうか? 新しい時代がきた。 我々は勝った! 闇の冥王は打ち倒され、王は帰還した」

「やっと得られた平和。傷を癒せる時だ」 エルロヒアが加えます。

「それでもなにか ……」 エルラダンが言いました。

「そう、それでもまだ、なにかが足りない ……。ね、そうじゃない? 兄弟」  エルロヒアはそう言って、ぼんやりと目の前の虚空を注視するままのレゴラスを見やりました。 エルロヒアは王子の杯にミルヴォールを注ぎ足しました。

「始まりがあるところにはいつでも終わりがある」  エルラダンが言いました。
「僕たちが何かを愛しても、それはいつでも僕らを置いて過ぎ去ってしまう。 歴史が教えた苦い結論だ。悩ましいね、過去にすがりつくか ……」

「新しい領域に踏み出すか。そこに新しい魂の喜びがあると信じて」  エルロヒアが言いました。

「兄弟、僕たちにも、やがて選択のときがくる」 エルラダンが言いました。  「この美しい土地に留まるか、海を渡る船を求めるか」

「その決断を下せるときが来たとは、僕にはまだ思えない」 エルロヒアが言いました。

「確かにね。 …… ねえレゴラス、平和の時がきた、でもそこに在る僕らの役割って、 いったいなんだと思う?」  エルラダンが問いました。

「さあね。僕はわからない」 王子が答えます。 「もう僕が皆の役に立つことこともない。そう、そのことを考えるだけでも心が重くなるんだ。 戦争の続いてたあいだは僕には …… 役割があった。 必要とされてた。これから僕は、なにをしていけばいいのかな?」

戻ってきたエルロヒアが、レゴラスを間に挟んでエルラダンの向かいに腰を降ろしました。
「やはりそう思う?」 エルロヒアの口調は優しげでした。
「戦争の後の兵士の宿命だね。 兄さんと僕もだよ。僕らが知っていることときたら 死に係わることばかり。それを除けばもう、僕らの知ってることなんて、なんにも残ってないみたいだ。 この500年のあいだ、僕らはただ、母が受けた苦痛に対する復讐のため、ひたすら敵を狩り続けてきた。 星の数よりも多くのオークを殺したよ」 
エルロヒアが姿勢を変えました。鎖帷子が、ちゃり、と音を立てます。
「初めのうち、殺すのは楽しかった。でもやがて、それは絶望へと変わっていった。 いまとなっては、殺すことに対して、僕はもう、なにも感じられない。 それはただ、僕たちの仕事、日々続けているだけのことでしかない。…… この手」  エルロヒアが、黒い革手袋に覆われた手を上げてみせました。 「この手は殺戮の手。それ以外、なにものでもない」

エルラダンが頷きました。 「けど僕は覚えてるよ、兄弟。 僕たち2人がただ殺戮するだけの存在ではなかった、 そんな時のことを。武器庫に日参して剣の砥ぎ具合だとか、 戦略のことばかりに頭をめぐらせていない、 そんな時代があったことを。 ガラスの向こうで小さく光る画像のように、 研究者、と呼ばれたエルラダン、癒し手、と呼ばれたエルラダン、詩人、と呼ばれたエルラダンがいたことを、 おぼろげにではあるけども、僕はたしかに覚えてる。 そんなエルフがいたなんて、今の僕からしてみたら不思議としか言いようがないけどね」

「あい、僕は癒し手、荒ぶる馬の宥め手、森を慈しみ育てるエルロヒア、そう呼ばれてた」  エルロヒアが言いました。  「思い出すね。ずいぶん、昔のことだ」

「君たちも …… なんだね。僕もずっと、考えてた」  レゴラスが言いました。  「オークを殺さない僕は、いったい何者なんだろう? この50年間、僕も、やっぱり復讐に駆られて、時には君たちと一緒に馬を走らせてきた。 同じだよ、僕も絶望のときを過ごしてた …… でもそんなとき、ある日僕は ……」  レゴラスはもう一度杯を傾けると、その甘い液体が胸のあの痛みを少しだけ和らげてくれるのを感じていました。

「…… 君は、愛に巡り合った」エルロヒアが言いました。

レゴラスは目を見張って、驚いたように黒髪の双子を見つめました。

「ばれてないとでも思った?」  エルロヒアが笑いました。  「きみのことも弟のことも、僕たちはよーく知ってるんだ。 一緒にエレヒの石に向かってたときとか、レベンニンの野に馬を走らせてたときとか、 彼ときみが互いに視線を交わし合う様子でね、これはなにかあるって感じてたんだ。 アンドュイン上をゆく海賊船の中では君たちは2人して雲隠れ、 やっと姿を見せたと思ったら揃って顔を輝かせてた。 今宵の儀式じゃそれに、君の表情がすべてをもの語ってたよ」

「そうか、じゃあ今夜は都中が、王とあのエルフ王子の不義の噂でもちきりってわけだ」  レゴラスが怒ったように言い放ちます。

「そうじゃない。僕たちは何も言わないし、他の誰も気づいたとは思わない。 秘密に関しては僕たちは信用してもらって構わないよ。人事とはいえないからな」  エルラダンがそう言って意味ありげにエルロヒアを見ました。

レゴラスは或る感情が2人の美しい相貌に走るのを見とめました。 もうずいぶん長い間、レゴラスはこの2人のあいだに単なる兄弟愛以上のもの、 エルフの法で認められている以上の愛情が存在していることに気づいていました。

「そう、僕たちみんな、新しい役割を見つける時だ」 エルロヒアが言いました。 「イムラドリスからここに向かう間、ずっと考えてたんだ。 殺戮者、としての僕は、もう、終わりだ」

エルロヒアが卓に長剣を放り投げると、剣はがしゃんと鳴って滑って止まりました。 それからエルロヒアは上衣の留めを外し、どっしりとした皮の肩当てを外しました。 金属製のベルトも外します。鎖帷子を頭から引き抜くと、重い金属音を立ててそれを床に落としました。

「そして、兄弟、僕もきみの後に続くこととしよう」 エルラダンが言いました。 やはり身に付けた武具を外しています。
「いま一度、この地に生きる美や喜び、そして愛に己を捧げるときがきたんだ」

レゴラスはため息をついてもう一口手にした酒を飲むと、すっと背筋を伸ばしました。襟元が開きます。

エルロヒアの眉間に皺が寄りました。  「これはなに?」 2歩でレゴラスの元へと歩み寄ります。 膝をつき袖なしの上着を紐解くと、レゴラスの胸元から赤黒く染まったチュニックが覗きました。  「従弟殿、きみは ……」

「なんでもないよ」 レゴラスが言いました。 「…… ただの事故さ」

エルロヒアが手早くレゴラスの胸元を寛げると、エルラダンも屈んで王子の胸元を覗き込みました。

「ほっといてもらえないかな」 胸元の手を払いのけようとしながら金の髪の王子が唸りました。

「無理だね」 エルロヒアが言いました。 衣を開き、王子の胸、心の臓のところに筋となった血の跡を調べます。
「ああ我が美しの君、ナイフを滑らせたにしては、これはずいぶんと変わった場所じゃないか」  エルロヒアが言いました。

「…… 死のうとしてた、そうなのかい?」 咎めるようにエルラダンが言いました。

レゴラスは黙って、何も言いませんでした。

「どうやら、従弟殿のご機嫌斜めは思っていた以上に深刻なようだな」  エルラダンがエルロヒアを見やりました。

「ほっておいてよ!」 レゴラスが叫びました。  「もうなんにも考えたくないんだ!」  レゴラスはおもむろにエルロヒアを押しやると、暖炉の前に立って手を着きました。 胸が大きく上下しています。

エルラダンとエルロヒアはともに椅子から立ちあがると、すっとレゴラスに近づきました。 2人はレゴラスを挟み込むように立ちました。

「覚えてるかい、エルロヒア? 僕たちのこの王子は、前にも生きる気力を失くしたことがあったね」  エルラダンは手を伸ばして、レゴラスの反対側にいるエルロヒアの頬を撫でました。

「そうだね、覚えてるよ。エルウィンが死んだときだ。 君は何も食べようとしなかった。僕たちは君を失うんじゃないかって怖れてた。 父さんが忘却と深い眠りを誘う薬を君に飲ませた。レゴラス、覚えてる?」  エルロヒアはレゴラスの顎を2本の指でそっと引き寄せ、その美しくも不思議な双眸へと眼を向けさせました。

「ああ覚えてるさ。目が覚めたとき、僕はこの世に出でしオークをすべて、 この手で殺してやるって、そう心に誓ったんだ」  レゴラスが答えました。

「あれは強い薬だった。効き過ぎたんじゃないかと、父は心配したんだ」  エルラダンが呟きました。  「予定の時を過ぎても君は目覚めなかった。 あの時、僕らは父さんに呼ばれて君の目を覚まさせるように言われたんだ。 父さんはこう言った、『必要な手段はすべて講じろ』ってね」  双子の戦士はそう言うとレゴラスの髪からひと房取って、指の間に弄びました。 「その夜、僕たちは君のところに行って、できる限りのことをした。 いろんな薬草を、調合したり、焚いてみたり。ぶってみたりもしたんだよ」  ハ! とエルラダンが笑います。  「万策尽きて、最後に僕は君の隣に横になった。体温で、君を暖めようとしてね」

「初めぼくは横に立ってその様子を見てた」 エルロヒアが言いました。  「でもやがて僕も我慢できなくなった。覚えてる?」

「ううん、覚えてない」 レゴラスが答えます。

「兄弟、あのときの記憶は封じたんだ」 エルラダンが言いました。

エルロヒアは闇の森の王子の顔を両の手で挟みこむと、その眼をじっと覗き込みました。  「でもあの時感じたことは、残ってるはずだ」 エルロヒアが言います。
「記憶を取り戻せるか、やってみよう」

レゴラスはエルロヒアの存在を強く感じました。 何か命じる言葉が聞こえたあと、レゴラスは暗い湖の底から太陽に向かって泳いでいました。 頭が水面を破ります。耳先を掠める2つの唇、希望と光を囁く言葉。 背に触れる、温かくて滑らかな胸板の感触。 4つの手のひらが身体中を這い回り、触られたところが燃えるように火照っていきました。 柔らかな唇がレゴラスの唇を塞ぎます。 脚の間に伸びてきた長い腕が、レゴラス自身を包み込み、ゆっくりと、でも執拗に上下します。 ベルベットのような熱い咥内で吸い上げられていると、ぬめりを帯びた指がつぷりと差し込まれました。 背後から太い男根に貫かれると壊れそうなほどの欲情が一気に湧き上がります。 暗闇の中、睦みあうしどけない声。達するときにはあの熱い咥内に向かって一心に腰を揺すり上げていました。 レゴラスは大きな声を上げました。

「君たち2人!」 レゴラスが呻きました。
「ああそうだ、そうだったんだ。僕を目覚めさせたのは、…… 君たちだね! 思い出した」

エルラダンの口の端が上がり、悪戯めいた微笑を浮かべます。
「全力を尽くしたんだよ。というのはつまり、かなりがんばったって意味だけどね」

「ああ、思い出すね」 レゴラスがほほ笑みました。
「闇の森での最初のときも、そうだった」

「レゴラス、きみは僕らの癒しの力を必要としてる、そうじゃない?」 
エルロヒアが耳元でそう囁くと、尖った耳先を軽く舐め上げました。
「留まるためには、僕たちの助力が必要じゃない?」

熱いものがずきりと下半身を走りぬけ、レゴラスはぶるりと震えました。 灰色の狼のような眼をした2人を交互に見つめます。
「…… わからない」 レゴラスが口を開きかけました。

エルロヒアが身を寄せ、首をかしげながらゆっくりと唇を開きました。 エルロヒアの顔はレゴラスのすぐ目の前に来ると、唇の手前でその動きを止めました。 すこしずつ近づいてくるその形良い唇を、王子は魅入られたように見つめました。 レゴラスの唇がいつのまにか開きました。エルロヒアはエルフ王子の息をすっと吸い込みました。

レゴラスはため息をつき、わずかに身を前に傾けました。 2人の間にふつふつと沸くようなエネルギーが流れます。 唇の触れ合う、あとほんの少しというところで、双子は身を引きました。 こくりと首をかしげてこちらをみています。

「それって、なに?」 レゴラスが問いました。 一瞬の落胆する気持ちを抑えられなかったのです。 エルロヒアの唇から発する甘い吐息と熱とが、まだ唇に感じられるようでした。

「君の空気を測ってるのさ」

「で? 結果は?」

「少し夜風を顔に受けるといい」 エルロヒアが言いました。 振り返って兄の双子にウィンクしてみせます。「じゃない? エルラダン」

「まったくだ、それしかないね」 エルラダンが答えます。 2人はそれぞれ、レゴラスの腕を片方ずつ取りました。

「あ、ちょっと、何?」

「軽く馬乗りに、ね、従弟殿。おいで」

レゴラスは2人の手を押しのけようとしました。  「どうして? 何の目的でそんなことするんだ?」

エルロヒアが笑いました。 「目的なんて、そんなもの僕らに必要かい? さあ愛しい君、きみ一人よりも僕らのほうが強いんだから、抵抗しようったって無駄だよ。 馬を駆けさせたらきみも頭がすっきりするさ」

双子たちは両脇からレゴラスの肘をしっかりと抱え込むと扉に向かって連れて行きました。 王の居城であるシタデルを囲んだ高い城壁の脇を、 レゴラスはこの2人に引きずられるようにして、いつのまにか足早に歩いていました。 向かっているのはミンドルルイン山に連なる大岩を穿って造られたトンネルです。 頭上の空にはちかちかと弾ける緑と金の光、数秒遅れて腹に響くどーんという音。 漆黒の空を裂いてきらめき流れ落ちる銀の光の下、3人は喜び祝う人々のなかを進んでいきました。



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原注
  * 『オータニル』(Ohtarnil):クゥェンヤ語の造語、Ohtar - 戦士, nil - 友、又は恋人
  * レゴラスと双子の間には血縁関係はないので、ここでは『従弟殿』というのは
   単に愛称として使っています。

  * 『チュイル』(Chuil): 英語ではTo life!(生命、人生に)



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